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作家 ヒューマンデザイン・システム認定プレアナリスト+LYDガイド 市川丈夫のBlog

【日常】眺めているのは現実なのか仮想なのか

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昨日は、昼前に浅草から散歩スタート。久しぶりに浅草寺にお参りし、上野、湯島、お茶の水、神保町と2時間ほど歩いて知り合いさんたちと合流。ティーハウスTAKANOでお茶会してきました。昼食がてらTAKANOで初めてサンドイッチ食べたり。

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そんな散歩中、噂のポケモンGOってる方々をあちこちでお見かけしました。僕はプレイしていませんが、仮想現実を通して現実世界を眺める、というのも面白いなあと。

しかし僕自身がバーチャル・リアリティの世界にいないからと言って、本当に現実世界を眺めていると言えるのでしょうか。浅草寺にお参りすれば御利益がある……と100%信じ込んではいないにしろ、目に見えない神様仏様がいるかもしれないと仮想してお詣りし、目に見えない惑星の影響があるかもしれないと仮想してヒューマンデザインや占星術を学び、目に見えない石の力がお守りになるかもしれないと仮想して身につけているのです。それはある意味、様々な仮想の色眼鏡をかけて、現実世界を見ているんじゃないかと。

御利益にしろ惑星の影響にしろ石の力にしろ、科学的には立証されていませんが、なんとなくそれがあるように感じながら生活し、街を歩いている。自分で自分に、仏教神道やヒューマンデザインや占星術や石のアプリをインストールし、歩いているようなものでしょうか。その色眼鏡を通して世界を見ると、何かがあった時「御利益のおかげかな」「水星が逆行しているせいかな」「石が守ってくれたんじゃないか」と感じることもあるわけで、ポケモンGOならぬ人生GOをプレイしている感覚かもしれません。

まあ、そういった目に見えない世界は、あくまでも「本当にあるかどうかは分からないけれど、あるように感じるし、ある程度信頼する」という距離感で接するのがほど良いのでしょう。これを100%信じ込んでしまうと原理主義的になってしまいますし、ヒューマンデザインでも「これを信じる必要はない」と諭しているあたりが気に入っています。あるかもしれないと仮想して研究し、実践してみるものだと。

そう考えると、本当に危険なのは「私には現実が見えているし、私は現実を歩いている」と言いつつ、自分が作り出した、自分にとって都合の良い仮想現実を歩いている人だと思うのです。たとえばナルシスティックに「私は正しい、私は悪くない」という仮想現実を作り上げ、自己責任から現実逃避してしまう。あるいは陰謀論的な「私が酷い目に遭っているのは世の中が悪い」という仮想を基にした世界を歩いてしまう。ある意味そちらの方が、歩きスマホよりよっぽど危険なんですよ……