NO PLAN NOTE 

作家 ヒューマンデザイン・プロフェッショナル・アナリスト 市川丈夫のBlog

【ヒューマンデザイン】ラー・ウル・フーは科学者だったのか?

f:id:crystal0207:20191209151214p:plain

最近、お客様から『(ヒューマンデザインの創始者)ラーって科学者だったんですよね?』と聞かれることがあります。そのたびに僕の方からも『えっ、ラーって科学者だったんですか?』と聞き返しております。僕も、まあまあラーの講義録を読んでいますが、ラーが科学者というキャリアに就いていたという記述には出会っておりません。そこで今日は、ラーの経歴について調べてみたいと思います。

Ra Uru Hu - IHDS

まずは、IHDS(International HumanDesign School)サイトでのラー・ウル・フーの紹介部分を翻訳してみましょう。この説明によると……

本名ロバート・アラン・クラコワーこと、ラー・ウル・フーは、カナダのモントリオール出身の上流階級の第4子として生まれました。彼は、芸術に囲まれ、音楽を通して自分自身を表現することを学び、死ぬまで音楽を追求してきました。彼は、サー・ジョージ・ウィリアムズ大学で文学士号を取得しましたが、経歴としては、広告経営、雑誌出版、メディアプロデューサーとしてビジネス界に進出しました。

うん、公式サイトには「科学者」的な経歴はまったく書いていないんですよね。ただし、こんな記述もあります。

私が学生時代に科学を学んでいた時、私はすべて、古い理論でやっていました。そういった理論は、何百年もかけて、何度も何度も検証されてきたものです。「Line Companion」

なるほど、もしかしたら大学で科学を学んでいたのかもしれませんね。でも、それだけで「科学者」って名乗れます? 一応、僕も国際関係学部卒業ですが「国際政治学者」と名乗れるほどではないですしね。やはり「科学者」と名乗るなら、どこかの大学や企業で研究職に就く、という経歴がほしいものです。

ただ、ラー自身、幼い頃から頭は良かったようです。「Incarnation by profile 3」でラーは、こんなエピソードを語っています。

幼かった頃、私は学校で暴れ、私の両親は、心理学者に私をテストさせました。すると少なくともIQに関しては、私が天才であることを発見し、両親は私をMENSA(上位2%の知能指数を持つ者が参加できる国際グループ)のメンバーとして登録したのです。それはある種の天才クラブで、マサチューセッツのボストンにあるMENSAに私は送りこまれました。私は、あれほどぞっとした経験はありません。ええ、ぞっとしたのです。私は14歳ぐらいだったと思います。私はすでにフォークシンガーになっていて、マリファナを吸っていましたが、そこにいたのは、信じられないほど自分の視点に凝り固まった人々ばかりでした。あなたが肛門の細菌学について話したいなら、その相手はまさにMENSAにいます。 彼らは、基本的に学者ゴリラ(勉強バカ)だったのです。私はそこにいられませんでした。ぞっとしたのです。

このエピソードを読むと、ラーは頭は良かったものの、勉強には興味が無かったようです。ラーは1948年生まれですから、10代後半はヒッピー・ムーヴメントの真っ只中で過ごし、マリファナを吸って音楽を楽しんでいた若者だったのではないでしょうか。

他にも、ラーが自分の経歴について語っている箇所をピックアップしてみましょう。

私はかつて、一日に200回電話をかける場所で働いていました。それは新聞社のオフィスでしたが、私が20代初期の頃でした。私には、オランダ人の上司がいて、彼はその仕事で何百万ドルも稼いでいたのです。しかし彼はもう引退しようとしていたので、私を訓練してくれました。彼は私に『もしお前が一日に200回電話をかけたら、20回は「Yes」と言ってもらえるだろう』と言ったのです。(中略) 私はその仕事を2年間続けました。恐らく私は、50万人に電話をかけたでしょう。そして恐らく49万人から「うるさい」と言われたのです。それでも私は、沢山のお金を稼ぎました。「Line Companion」

もう何年も昔……まるで過去の人生のような昔のことですが、私はあちこちの都市へ、一日250回も電話をかける仕事をしていました。私は、2~3万回ぐらい電話をかけ、誰かが電話に出ると、その人がすぐに『Yes』と言うか『No』と言うか分かりました。うまくいかない場合も分かりました。「The Grobal Incarnation Index」

私も26.1を持っていますが、私が若い頃、教育的な仕事を止めた時には常に、私の時間や、私のエネルギーや、私の意志について、指図しようとする人がいたのは、間違いありません。私も、扱いにくい人間ではないのです。「Line Companion」

私は1970年代後半~1980年代初めにメディアビジネスに携わっていました。私は、ロックのプロモーションビデオを制作していましたが、それはカナダでは最も初期のものでした。私は、あるビデオ制作をしていて、そのビデオで演じてくれる俳優を必要としていたのです。そこで私は、公開オーディションを開きました。私は、いくつかのエージェントに連絡し、エージェントは何人かの人々をオーディションに寄越しました。その中の1人が、当時16歳のキーファー・サザーランドだったのです。彼はまだ、かわいい少年でした。そして私は、キーファー・サザーランドに最初のメディアでの仕事を依頼したのです。「Partnership Analysis」

1980年から1981年の終わりまで、ほぼ2年間、私はカナダの「メンズウェア」の発行者でした。それはファッション雑誌でした。私は、日に3回は洋服を着替えていました。「Quaters and Angles」

私は数年前、雑誌の出版社に務めていました。写真撮影をしていた時のことです。「Life Cycles Analysis」

私がイビサ島でVoiceとの経験をした頃、周囲には多くのOSHOの弟子たち(Sannyasins)がいました。(中略) イビサ島での私は、奇妙な経験をした、とんでもなく惨たらしい麻薬中毒者でした。そしてOSHOの弟子たちは『お前は、俺のために働くべきだ。お前は、俺のために働いて責任を負うべきだ』と言ったのです。麻薬の運び屋稼業(Mule)は、スピリチュアルな体験でした。「The Love Gates」

……とまあ、ラー自身が語った仕事を見てみると、新聞の電話勧誘員、プロモーションビデオの作成、雑誌出版、そしてイビサ島では麻薬の運び屋と、さまざまな職種に携わっております。あいにく「教育的な仕事」が何なのかはよく分かりませんし、それが「科学者」的なキャリアだったのでしょうか。しかしこの経歴を見てみると、どこかで「科学者」をやっていたようには見えないんですが、どうなんでしょうか。

もちろんラー自身、「研究者」というライフスタイルを持っていますし、趣味として科学の本を読んでいたエピソードもあります。ただ、そのことだけで『ラーは科学者だった』と言えるのでしょうか。そもそも最初に書いたように、公式サイトでは「科学者」という言葉は一切使われていませんし、そのあたり、これからも検証を続けたいところです。

 

・ヒューマンデザインの個人フルリーディングを受けてみませんか?

 ご希望の日時・場所についてのご相談は、

 お気軽にtakeo.ichikawa@gmail.comへご連絡ください。