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作家 ヒューマンデザイン・プロフェッショナル・アナリスト 市川丈夫のBlog

【ヒューマンデザイン】そういえば口癖は「まあまあ」だった

サラリーマン時代の僕は、なにか職場でトラブルがあると「まあまあ」と言うのが口癖でした。かつての職場は、社員・パート合わせて総勢100名にものぼるような大型書店で、当然お客様も多く、毎日なにがしかのトラブルが発生していました。勿論、中には受けて当然のお客様からのクレームもあり、そんな時は平謝りするしかないのですが、社員同士のちょっとした行き違いで摩擦になると、僕は「まあまあ」と言っていたように思います。たしかアルバイトの女子学生から「出た、また市川さんの『まあまあ』が」と言われてたくらいだから、きっとそう。

なにせ僕は「怒り」が大の苦手。自分が怒られるのは勿論嫌ですし、他人が怒られているのを見るのも嫌。たまにいますよね。客前で店員に怒る店長さんとか。ああいうの見ると、二度とその店には行きませんね。自分が怒るのも嫌だし、とにかく「怒り」からはできる限り遠ざかりたいのです。

ところが世の中には、怒って当然と思う方もいて、そういう方からすれば「なぜあなたは怒らないのだ?」と疑問に思うようだし、僕のように「まあまあ」と言われると、なおさら腹が立つ場合もあるそうです。どうして私の怒りを認めないのだと。

君たちはなぜ、怒らないのか 父・大島渚と50の言葉

君たちはなぜ、怒らないのか 父・大島渚と50の言葉

 

これはヒューマンデザインを知ってから理解したのですが、人間には他人から受けた感情の波を増幅する人、感情の波の影響を受けにくい人に分かれるそうです。

僕は勿論、前者。感情の波を増幅する人。こういった人は普段、感情のアップダウンは無く、落ち着いた雰囲気。喜怒哀楽はあまり出ません。しかし他人から「怒り」等の感情の波を受けると、それを200%増幅して相手に返すとのこと。あるいは感情の波を避けようとして、無理に良い子の振りをするなど不健康な状態に陥ることもあるようです。

このあたり、とても実感がありましたし、道理で「まあまあ」と言っては他人の感情をなだめようとしたはずだなと。悲惨なニュースは悲しすぎて見ていられない。動揺している人が傍にいると自分も動揺してしまう、といった現象も、影響されやすく不安定な感情によるものだとか。

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

 

しかし今では、そうやって「怒り」を回避してきて良かったなあとも思います。

先日読んだ「妬まない生き方」のスマナサーラ長老によれば、怒りが生まれれば喜びが失われ幸せにはなれないし、怒りを放つ人は周囲の人々の幸せも奪ってしまう幸福泥棒になるとしています。たぶん僕自身はそれなりに幸せで、怒っている人に自分の幸せを奪われたくなかったのでしょう。 

「そうは言っても私には怒るべき正当な理由がある」との反論にもスマナサーラ長老は「正しい怒りはない」とまで断言しています。誰かに傷つけられた、盗まれた、だまされた。そういった事件は怒りを生みますが、その怒りをずっと抱えているうちは幸せにはなれない。「いやこの怒りは自然なモノだから怒っていいのだ」と受け容れてしまうと、いつかその怒りに身体をむしばまれ不健康になるとも。

無論、本書で述べられているのは長老クラスの境地ですから、僕自身どこまで怒らずにいられるかは微妙です。自分の恋人がレイプされて殺されたら、それでも犯人に怒らずにいられるのか……しかし「怒り」に任せて犯人を自分の手で殺したとしても、それで気分すっきり晴れやかになるはずもなく、やはり「怒り」とは距離を置いた方が良いのだろうと思っています。

では政治や不正、犯罪に対する「怒り」はどうなんだと言われれば、それを「叱る」「正す」「罰する」必要はあっても、「怒る」必要はまったくないと。また「怒り」に基づいた行動はうまくいかないとも言っており、このあたり先日のBlogにも引用したマザー・テレサの言葉「戦争反対の集会には出席しません。平和のための集会を開くのでしたら、私を招待してください 」にも通じるかなと。「反対」という意識に込められた「怒り」では幸せになれず、その行動もうまくいかないのだと。

ちなみに「怒らないこと」では、怒っている人に対してお釈迦様が下した「聖なる罰」が紹介されています。これはちょっとシカトっぽいのですが、事前に本人に「これ以降、私はあなたと口をききません。でもあなたは自由に何を話してもいいですよ。ただ私はそれを無視します」と通告するそうで、あたかも目の前にその人がいないように振る舞い続けるのだそうです。つまりあなたの「怒り」にはつきあいません。あなたが「怒り」をなくすまで罰は続きますよと。 

僕たちには本来やるべきことがあるのだから、わざわざ「怒り」につきあって消耗しては、やるべきこともできなくなってしまう。自分の時間やエネルギー、楽しい気持ちを「怒り」によって奪われることこそ、幸福泥棒なんだろうな……と思うのです。